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だんだん見えてくるもの

 物事の見え方は、その時々に違う。 同じものを見ていても、感じ方が違う。 興味湧かず、 何も感じなかった、気づかなかったものが、 美しく見えはじめ、心を捉えるような魅力あるものに変わることもある。 その反対も然り。 自分の人生をいつも振り返る。 道を誤った。あのとき選んだ道が行けなかった。だから今、こういう苦労をするのだ、と思っていたことも、 他の時には、いやもしこの道を歩んでこなければ、今のこのことはなかったと思い直したり。 特に人との出会いでそれを感じる。 多くの人と出会ってきてその関係が継続している人は少ない。 自分は人付き合いが下手くそで不器用 わがままで支配的だからだと思う。 上っ面はいいのだが、苦手と思った人は、切り捨ててきた。 小度胸だからはっきり言えず、悪者にもなりたくないからフェードアウトしたり、つまらない人間だと思わせたりしたように思う。 いや実際つまらない魅力のない性格だ。だから人が寄り付かない。 この人と一緒にいたいと思ってもらえるようにはできない笑 仕方ない面がある。生まれ育った環境と自分の生まれ持った性格がそうさせてしまっているのだから。 しかし、誰かの役に立ちたい、苦しんでいる人を助けたい、悲しんでいる人を慰めたい、そういう思いをもって関わった人はたくさんいる。 が、いっときだけで、繋がり続けられない。そういう終わり方をどう自分は評価しているのか。 自分は逃げてばかり、という評価みたいだ。 これが積もり積もって自分という人間の価値を低くしている。 自分で自分は駄目な人間、できそこない、存在してもしなくてもいいようなもの、そんな評価をくだしているようだ。 でも、だんだん見えてきた。 ほんの一時でも、誰かの悲しみや苦しみに共感し、寄り添って、助けになろうとしたこと、してきたこと、そして相手が元気になったことがあったということを。 よくやったぞ自分! そう褒めてあげたらどうだろうか。 だんだんとそんな考えが見えてきた

とりて読め

 イザヤ34章に出てくる。 聖書を読め!と。そして聖書がどう書かれたか聖書が教えている。 著者は神の霊、聖霊によって書くことを導かれている。 だから統一性があるのだ、と。 34:16 あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。 この聖句の歌があるらしい。とりて読め、とりて読めと歌うらしい。 その歌を聞いて、はっ!として聖書を読んで回心した偉人がいる。 だれだっけ? 思い出せない。笑 (追記:アウグスティヌスだそうだ) そして聖書を読んで 目からうろこ(これも新約聖書から)の経験をする。 そういう体験は強い 自分で考えて思いついたのとは違う圧倒的な強さがある。 神に語られるとは そういう経験だ。 最近 そういう経験がない どうやら聖霊は僕を去ったらしい。 そう感じる。 きっと去ってはいないのだろう。その働き方が変わったのだろう。 なぜなら、そういう経験を信じるようになり依存するからだ。 信仰の深さとはそういうある種神秘的なものがなくなっても なおその人のなかに根付き自然なものになっていること まさに血と肉になっていること なのだと思う なぜなら 聖書がそう教えている どこだったか 忘れたが (追記・イザヤ50:10) (追記:聖書が聖書自身の紹介するというのは、だましのレトリックによく似ている。前提には隷属があるのだが。根拠さえも捏造していく。洗脳。しかし、これとは違う。誰も何も教えないのに語られるという神秘経験がある。啓示と言われる。これは経験した者にしかわからない。キリスト教の信仰が2000年も迫害の歴史を貫いてきたのは、この経験と聖書の現実化があったからかもしれない)

いつか わかればいい

 なんで? キリスト教の教えの中心は「愛」だろう その愛はイエス・キリストの生涯、特に十字架刑に処せられたというところに現れているという。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節がそれだ。 イエスの教えに無抵抗主義的なものがあるという人がいる。 右の頬を打たれたら左もだせ!だ。 こういう自己犠牲の愛の実践によって社会におおきな変革をもたらしたのは事実である。 クリスチャンらがこの「愛」に生きることに由って社会福祉が拡充されたり 人々の人権や倫理が引き上げられたというのも確かにある。病院や孤児院、高齢者、障碍者の社会生活の向上に貢献したということがあるだろう。 イエスの生き方にモデルがある。教えや行動に思想や哲学、源泉がある。 ところが、である。 戦争をし、信仰の違うものをむごいほどに抑圧し、排除しているのも事実である。 聖戦のようなことをしてきたし、クリスチャンの私生活の中にも同じような側面がある。 ここに、なんで? という疑問を今なお持つ。 パウロは伝道中に獄に入れられた。そしてそこから出されるとき、自分はローマ人だと明かし、ローマ人を裁判なしで鞭打ったことを責める。 なんで? 右の頬を打たれたら左の頬をだせ、というイエスの教えはどこに? イエスは十字架にかかるがご自分の正しさを主張せず、十字架で最後までその身を敵の手に任せられたという「愛」の生き方が、手本なはずなのに なんで? 牧師家庭に生まれ育ち 数々の不幸と言えるような苦しみを経験してきた。 神も仏もあるものか!というほど苦しみが深く自分の思った通り、願ったとおりにはならなかった経験をしつつも、それでも、神を信じ、神を愛だと思っているが、先に挙げたことについては、 なんで?それでいいの? だ。 わからない。義とか正しさのためには剣を抜くことも「愛」だというのだろうか? なにか、小賢しいところがあるように見える。 いつか、わかるようになればいいと思う