とりて読め
イザヤ34章に出てくる。
聖書を読め!と。そして聖書がどう書かれたか聖書が教えている。
著者は神の霊、聖霊によって書くことを導かれている。
だから統一性があるのだ、と。
34:16 あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。
この聖句の歌があるらしい。とりて読め、とりて読めと歌うらしい。
その歌を聞いて、はっ!として聖書を読んで回心した偉人がいる。
だれだっけ?
思い出せない。笑
(追記:アウグスティヌスだそうだ)
そして聖書を読んで 目からうろこ(これも新約聖書から)の経験をする。
そういう体験は強い 自分で考えて思いついたのとは違う圧倒的な強さがある。
神に語られるとは そういう経験だ。
最近 そういう経験がない どうやら聖霊は僕を去ったらしい。
そう感じる。
きっと去ってはいないのだろう。その働き方が変わったのだろう。
なぜなら、そういう経験を信じるようになり依存するからだ。
信仰の深さとはそういうある種神秘的なものがなくなっても
なおその人のなかに根付き自然なものになっていること
まさに血と肉になっていること なのだと思う
なぜなら 聖書がそう教えている どこだったか 忘れたが
(追記・イザヤ50:10)
(追記:聖書が聖書自身の紹介するというのは、だましのレトリックによく似ている。前提には隷属があるのだが。根拠さえも捏造していく。洗脳。しかし、これとは違う。誰も何も教えないのに語られるという神秘経験がある。啓示と言われる。これは経験した者にしかわからない。キリスト教の信仰が2000年も迫害の歴史を貫いてきたのは、この経験と聖書の現実化があったからかもしれない)
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