いつか わかればいい

 なんで?

キリスト教の教えの中心は「愛」だろう

その愛はイエス・キリストの生涯、特に十字架刑に処せられたというところに現れているという。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節がそれだ。

イエスの教えに無抵抗主義的なものがあるという人がいる。

右の頬を打たれたら左もだせ!だ。

こういう自己犠牲の愛の実践によって社会におおきな変革をもたらしたのは事実である。

クリスチャンらがこの「愛」に生きることに由って社会福祉が拡充されたり 人々の人権や倫理が引き上げられたというのも確かにある。病院や孤児院、高齢者、障碍者の社会生活の向上に貢献したということがあるだろう。

イエスの生き方にモデルがある。教えや行動に思想や哲学、源泉がある。


ところが、である。

戦争をし、信仰の違うものをむごいほどに抑圧し、排除しているのも事実である。

聖戦のようなことをしてきたし、クリスチャンの私生活の中にも同じような側面がある。

ここに、なんで? という疑問を今なお持つ。


パウロは伝道中に獄に入れられた。そしてそこから出されるとき、自分はローマ人だと明かし、ローマ人を裁判なしで鞭打ったことを責める。

なんで?

右の頬を打たれたら左の頬をだせ、というイエスの教えはどこに?

イエスは十字架にかかるがご自分の正しさを主張せず、十字架で最後までその身を敵の手に任せられたという「愛」の生き方が、手本なはずなのに

なんで?

牧師家庭に生まれ育ち 数々の不幸と言えるような苦しみを経験してきた。 神も仏もあるものか!というほど苦しみが深く自分の思った通り、願ったとおりにはならなかった経験をしつつも、それでも、神を信じ、神を愛だと思っているが、先に挙げたことについては、

なんで?それでいいの?

だ。 わからない。義とか正しさのためには剣を抜くことも「愛」だというのだろうか?

なにか、小賢しいところがあるように見える。

いつか、わかるようになればいいと思う

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