失ったのではないかもしれない

 病気を発症して、

生活が全く変わってしまった。

仕事を辞めなければならず、結婚生活にも終止符を打たなければならなかった。

大好きな二人の子どもたちとも、離れなければならなくなった。

友人と思っていた人とも距離を置くことになり、

住む場所も変えなければならなった。

自分の思ったように全てが行かなくなり、

仕方なく、なるようになっていくという生き方しかできなくなった。

心は失意しかなかった。


旧約聖書にヨブ記というのがある。

ヨブは敬虔な神を信じる人だった。なのに、全てが失われていく。

財産を失い、子供を失い、健康を失い、立場を失い、友を失った。愛するもの、信頼するものすべてを失った。

神がいるならなぜこんなことが、ということが次から次に起きていく。

自分はヨブの体験をしているかのようだった。

健康を失い、仕事を失い、立場を失い、信用を失い、住むところを失い、友人を失い...


友人たちはこんなにも不幸がつづくのには、彼が神を怒らせたのだ、

悪いことを行ったのだと考え、ヨブにそう提言し、彼との関わりは、

彼に寄り添うところから、彼を責め立て、彼を苦しめる存在となっていく。

友は友でなくなってしまった。友人たちからしてみれば、彼が元気になってほしい

という思いからそうなったのかもしれない。因果応報。人は大にしてそう考える。


ヨブは孤立し孤独の中に閉じ込められていく。しかし、彼はブレることのない

思いを持っている。神に対してつばを吐きかけるようなことは一切ない。

そんな状況の中でも、神が自分のことをすべてご存知であってくださる、

自分の身の潔白は神が知っておられると。


自分とヨブの違いは、自分は正しいとは言い切れない悪を持っていて

罪を犯している、神に叱られているという思いをもっているところか。


それでも、自分の生い立ち、生まれながらの肉体の弱さ、出会った人々、

生きてきたバックグランド、状況を考えると、仕方ないではないか...

という自分を守ろうとする思いもある。

それをなくしたら、自分はどこに落ちていくか それを想像する恐れから

それは手放せない。皮一枚つながるような小さな存在意義であるように思う。


ヨブはその後、自分は正しいという主張のあとに、神に悟らされる。

自分は正しい、間違っていないと言い切るところに、ヨブの罪深さがあると。

ヨブはその神からのメッセージに全面降伏をする。かぶっていた兜を脱いだのだ。

神はそのヨブの心と姿勢を義(ただしい)と認められ、彼を祝福なさる。

健康は回復し、以前よりも豊かな生活を送るようにされた。


自分はヨブと同じではないが、失意のどん底の中から、笑い、喜び、希望を

もてるようにと、優しい人々との出会いをあたえ、こんな自分を物心両面から

支えてくれた友がいた。

友人のふりをした人ではなく、寄り添い、共に涙を流しながら、自分が生きれるようにと

尽くしてくれた人がいた。友がいたのだ。



コメント

このブログの人気の投稿

Good Friday

Happy Easter

だんだん見えてくるもの